演説:「ホロコースト記念日 」

  • 25 Apr 2017
  • By Leo Melamed

人類と動物の違いは記憶力です。動物の世界では、知識は伝えられません。生まれたばかりの動物ははじめからやり直さなければなりません。人間は学んだことを、記憶を用いて世代から世代に伝えることができます。しかし、伝えることを忘れてしまうこともあります。

周知のように、1939年9月1日にドイツがポーランドに宣戦布告し、世界は人類史上最も悲惨な軍事衝突に巻き込まれました。この戦争は多くの世界の国々を巻き添えにしながら6年以上続き、30ヶ国以上で1億人以上の人々に影響を及ぼしました。600万人のユダヤ人が大量虐殺され、150万人の子どもと他国籍の何百万人もの人々が命を奪われました。侵攻から27日も経たずにポーランドは陥落し、わたしが生まれ育ったビャウィストクの市民は、ナチスの侵攻によって捕らえられた最も初めの犠牲者に数えられます。

爆撃が始まる前にわたしの父は、その方が安全だろうということで、街の郊外の近くのレンガ造りの建物にわたしたち家族を移動させました。父は光が漏れないよう窓を黒く塗りました。わたしはこっそりと鍵で引っ搔いて自分だけの小さなのぞき穴を作りました。こののぞき穴から、ドイツ軍の戦車がはじめてビャウィストクの街に侵攻する様子を目にしました。7歳の子どもにとって戦車は、異世界からやって来た巨大な怪物でした。

しかし、戦車がやって来る前、夜中に母がわたしを起こしました。父に別れを告げなければなりませんでした。わたしたちが暗闇を駆け抜けているときに、母がわたしの手をしっかりと握ってくれていたことを覚えています。暗闇を遮るものは落下する爆弾の光の点滅と定期的に鳴り響く音。それが機関銃の音であることが分かりました。

その夜からわたしたちは、ビアウィストック、そして、取り残された不幸な魂に降りかかる惨劇から逃亡を始めることになりました。ゲシュタポが政治犯として父を捕まえに来たとき、父はそこにはいませんでした。父の居場所はわたしたちにもまったく分かりませんでした。彼らはただ母に暴力を振るうだけで、母の目に涙が溢れましたが、声を上げることはありませんでした。

なぜ父はすぐに逃げ出したのでしょうか。数週間後になって父が母に電話をかけ、ビアウィストックから後にリトアニア領になるヴィルノ(ヴィリニュス)への最終列車に乗せるよう指示をしたのはなぜでしょうか。ヴィルノをリトアニアに譲渡することは、リッベントロップとモロトフの間で結ばれた不可侵条約に含まれていました。

ドイツがポーランドに侵攻する直前の1939年に、ビアウィストックには11万人のユダヤ人が住んでおり、都市の人口の60%以上を占めていました。2000年にわたしが家族とともに戻ってきたとき、ビアウィストックにはユダヤ人が住んでいないことを市長から教えられました。それは悲しい真実ですが、さほど不思議なことではありません。近くにトレブリンカが、南西にはグロスローゼンがあり、南東にはマイダネクがあります。そして、さらに南、ワルシャワの向こう側にアウシュヴィッツがあります。

エリ・ヴィーゼルの次のような言葉があります。「すべての人類の叫び声は、このゆがんだ場所につながる。ここは夜の王国で、神の顔は隠され、燃え尽きる空は消え去った人々の墓地になる」。[1]

なぜ両親は家や教師の職業を手放し、親戚や友人などのすべて捨て去ったのでしょうか。そしてどこに向かったのでしょうか。目的地はありませんでした。ヒトラーがポーランドを死の工場に変えてしまったことを世界の誰もが知ることになる以前のことです。ガス室、飢餓、強制労働、感染症、処刑、医学実験による死の工場。野蛮な残虐行為を言葉で説明することは不可能です。

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が尋ねたように、「説明できない残忍な行為に対してどのように正義を行うことができるのでしょうか」。[2]

悲しいことに、その非人道的な殺戮が行われているとき、世界は目と耳を塞いでいました。人歴史から消えることのない非道なふるまいがユダヤ人に行われていたのです。

1941年6月27日ビアトリスクでは、ナチに銃口を付けつけられた、わたしの2人の祖母と叔母を含む2000人ほどのユダヤ人の魂がビアリストーカー・グロッセ・シュール(大シナゴーグ)に連行されました。扉と窓のすべてが塞がれ、建物全体にガソリンが撒かれました。そして、火がつけられたのです。

現在残っているのは、有名なビザンチンドームの鉄骨の記念碑だけです。

わたしは運命によって生き延びました。杉原千畝によって可能となった奇跡的な脱出は、2年の月日と3つの大陸と6ヵ国語にまたがり、シベリアからウラジオストクへのシベリア鉄道を経て日本の敦賀に渡り、最終的にアメリカに到達することができました。このような回り道を経て、言葉では言い表せないヨーロッパの恐怖を逃れた幸運な少数の中にわたしは入り込むことができました。

しかし、それがアメリカであったこともわたしは忘れることができます。自由と勇気の土地において、アメリカのルーツもなく、資産や証明書も持たず、何の影響力もないわたしのようなビアリストク出身の難民に対して、先物市場の世界に飛び込んで、その複雑な構造のトップに登りつめるチャンスが与えられました。

世界の他の国でこのようなことが実現できるでしょうか。

後になって、わたしは父に質問しました。「なにがそうさせたのか」と。肩をすくめて、直感的に行動しただけだと父は言いました。「自分が正しいと思うことを行うべきだ」と。

感覚的な本能による反応が正しいことであり、それこそがまさに日本の領事代理として杉原千畝が1940年8月にリトアニアのカウナスで行ったことです。命からがら運命を逃れてきたものの、ついに歴史に捉えられたユダヤ人が何千人もいましたいました。彼らの唯一の犯罪はユダヤ人であることでした。その後数ヶ月も経たずにバルバロッサ作戦が開始され、ヒトラーがソビエト連邦を侵略することになりました。間もなくナチスはヴィルノに侵攻し、瞬く間にユダヤ人口のほぼ半分を抹殺しました。そのような運命がわたしたち全員を待ち構えていたのです。

脱出計画は杉原千畝とオランダ領事のヤン・ズワルテンデクによって策定されました。それは、ユダヤ人が日本を経由して脱出できるように日本通過ビザを発行するという計画でした。それしか方法はありませんでした。

杉原は東京の外務省に3回許可を求めましたが、3回ともビザを発給しないよう命じられました。「それはわたしたちの仕事ではない」と言われましたが、杉原の本能は反対のことを言っていました。

50年後、わたしは杉原千畝の長男の杉原弘樹と知り合いました。千畝が家族を集めて、政府の命令に従うと神の命令に背くことになると説明したとき、弘樹はまだ5歳でした。当時、杉原千畝はキリスト教に改宗していました。「わたしの本能は」と彼は家族に話しました。「行うべき正しいことは彼らに生きるチャンスを与えることだと言っている」。

カウナスを離れるときも、杉原千畝と妻の幸子は列車の窓を開けたままビザを書き続けました。外務省の命令に反する杉原の良心による反応は、4000人以上のユダヤ人の命を死から救い出しました。わたしもその救われた命のひとりです。最近亡くなった親友のマシャ・レオンもそうでした。わたしたちはともにヴィルノで生まれ育った幼なじみです。命を救われた人びとの数は今や数十万人にのぼります。よく言われる通り「ひとりの命を救うことは、世界全体を救うようなもの」だからです。

しかし、悲しいことに、人間がいつも正しいことを行っているとは限りません。

第2次世界大戦最中の1944年、世界ユダヤ人会議は、アメリカ合衆国陸軍省にアウシュヴィッツ=ビルケナウに通じる線路を爆破、さらにはアウシュヴィッツ自身を爆撃するよう訴えかけました。この要求は否定されましたが、同盟国は軍事目標だけを爆破することに全力を尽くしたと語っています。

70年後の2013年、わたしたちはまたしても繰り返しました。オバマ大統領が設定したレッドラインを超えて、シリアがサリンガスで市民を虐殺したにもかかわらず、アメリカは化学施設を爆撃して残虐行為を止めようとはしませんでした。

4年後の2017年ではそれが異なりました。シリアがサリンガスを再び使用したとき、ドナルド・トランプ大統領は本能的に正しいことを理解していました。彼の決断に拍手を送ります。

杉原千畝の英雄的行為は20年以上も顧みられていませんでしたが、彼の行動が知られるやいなや、世界から高い評価を受けるようになりました。1969年にはイスラエル政府から表彰を受け、ヤド・ヴァシェムによって「諸国民の中の正義の人」に選ばれました。ワシントンD.C.のアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館からも同様の評価を受けています。1993年には、リトアニアのライフ・セービング・クロスに選ばれ、カウナスとヴィルノの通りの名称が杉原通りと命名されました。最近ではテルアビブにも杉原通りが作られました。1996年には、ポーランド大統領からポーランド復興勲章を授与されています。

杉原千畝は今日、世界史上において最も賞賛されている人道主義者のひとりです。わたしは彼の記憶と特別なメッセージを後世に伝えています。「すべての人が自らの内に世界を変える力を持っています!」。

 

[1] エリ・ヴィーゼル「Pilgrimage to the Kingdom of Night」(「ニューヨーク・タイムズ」1979年11月4日)

[2] 1945年4月12日、ヨーロッパ連合国軍最高司令官のドワイト・D・アイゼンハワーが、オーアドルフ収容所を訪問しました。残虐行為の証拠を確認した彼は、1945年4月15日付のジョージ・C・マーシャル将軍への手紙にこのように書いています。「わたしが目にしたことは筆舌に尽くし難い。飢餓や残虐行為に関する物証と証言は耐えきれないものだった。今後、これらの告発が単なる「プロパガンダ」に陥る傾向となってしまう場合に、事実の直接証拠を提供する立場になるために意図的に訪問した」(出典:アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館(USHMM))。